「願望」とは・・・・ [礼儀・礼貌]
今日、電車に乗っていたら、女子高校生の集団が乗っている車両にぶち当たってしまった。電車の中で、騒ぐは、菓子を食っているが、じゃんけんしているは、化粧しているは・・・・まさに最悪・・・・。いわゆるオバタリアン(死語)と少しも変わらないな・・・。
女性の本性に「豪放」「大胆」「恥知らず」な部分があることは承知しているので、こういう光景は少しも不思議じゃない。逆に、不思議ではないので、少しも魅力を感じない。印象としては悪感情しか残らない。
この光景を見たとき、ふと「ひとへの願望とは何だろう?」ということが頭をよぎった。
人には「自分はこうありたい」とか「あの人にはこうあってほしい」とかという願望があるだろう。だが、それは「自分はこうではないから」「あの人はこうではないから」という観測が前提となっているのは確かである。
冒頭の光景を見たときに頭に浮かんだのは「男は男らしく」「女は女らしく」という言葉だ。(これはもしかしたら男だけが思っているのかもしれない)
ここでいう「男らしく」「女らしく」とは、必ずしも「男」「女」の本性ではなく、むしろその逆なのだろうとおもう。「男らしく」というと、一般には「力強い?」「豪快?」「大胆?」「小さなことを気にしない?」などがあるのかもしれないが、自分を振り返って思うのは、男は女に比べて少しも力強くもなければ、大胆でもない。センチメンタル、といえば聞こえはいいかもしれないが、要は小心でウジウジして優柔不断である。そういう男への例えとして「女の腐ったの」という表現があるが、男の本性はそんなところなのではないだろうか。(個人的には、「女の腐ったの」ではなく「男の腐ったの」という表現の方が的を得ている気がする。女性が腐っても、絶対あんな風ではないと思うから。)
だから『そうでありたくない』という願望から、本性の裏返してしての『男らしく』という虚像が生まれたのだと思う。
その虚像が何らかの形で達成されているとき、魅力を感じるのだとおもう。
慎ましい女性に魅力を感じるのも、納得である。
ここまで考えたとき、荀子の「其の善なるは偽なり」という言葉がふと思い出された。
これは荀子のいわゆる『性悪論』が語られるときに引用される有名な句だが、本義は「(人の本性は悪であり、)善というものは、偽(=人為により後天的に作られるもの) である」となる。
個人的見解で拡大解釈すると、善というのは、善悪で語られる善のみに限らず、「ひととは、こうあるべきである/こうあってほしい/こうありたい」という、人の願望=理想像全般であろう。
そういった理想の姿がある人において達成されているとき、それはその人の魅力につながるのであろうが、そうあることは必ずしもその人が自然にそうなっているのではなくて、その人の偽=人為=努力の結果であるのだと思う。
学は已(や)むべからず・・・・人間は常に学ぶべきである、と荀子は説いている。その弛まぬ「学」により、悪である人の性は善に変わりうるのである。ここでいう「学」とは、必ずしも学問だけを指しているのではないだろう。日々の弛まぬ努力によって人は変われるのである。
思っているだけではだめだ。
荀子は「道は近しといえども行かざれば至らず、事は小なりといえども為さざれば成らず」ともいっている。近いところでも歩み始めなければ到着できないし、小さなことでも実行し鳴なければ達成されないのである。
何も大きな目標を立てればいい、ということではない。小さな目標でもしっかりと立てて、実行することが重要なのである。実行しなければ、何も始まらないのである。成功するにこしたことはないが、失敗しても、何か学ぶことができるはずである。
上に挙げた3つに限らず、荀子から学ぶこと、勇気づけられることは多い。
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